あリがとう 丸高の一年

 
私が丸亀高校で学んだのは、新制高校三年生での一年間だけである。しかしこの一年が私の人生にとっては、かけがえのないほど有益であったし、また楽しいものであった
  ここでは、なぜ私が最初から丸亀中学に入学しなかったのか、また、たった一年間ではあったが、当時のユニークで素晴らしい先生方の横顔や愉快な級友たちの想い出などをエピソードも交えながら断片的に書き綴ってみたい。
 名門・丸亀中学は小学生の頃から私の憧れであったが、六年生の時の担任は私を丸中へ推薦してくれなかったその理由は、当時の私が「吃るために、級長になっても、まともに号令が掛けられない」ということであった。

 
その頃の丸中は陸士、海兵の予備校と言われるような時代でもあり、またこの頃からの入学試験が推薦と面接に変わっていた。そんなことから「吃る
供」に丸中は極めて不利と判断されたのである。その点、工業学校では面接試験の場に紙と鉛筆が備えられていて、たとえ吃って答えられなくても書けばよいということであった。
 工業学校では専門科目の授業や実習が多く、一般科目の授業時問は少ない。例えば英語などは週一回という有様であった。ただ当時は、ここでの成績がかなり良ければ、専門学校へは容易に進学できると言うことでもあり、小学校の担任は私にそのような道、すなわち私をして多度津工業学校へと向かわせたのである。
 しかし戦後、このような特典はなくなり、私は旧制専門学校を受験したのだが、何れも見事に失敗した。ところが偶々、その頃、丸高三年生への編入試験があると聞いて受験したのが、私の人生における大きな転機となった。
 白線浪人と言われたあの頃の高校三年生……、どの授業も私には楽しくてたまらない毎日であり、丸高での勉強は本当に有益であった。そして、新しく出来た友達もまた素晴らしかった。その頃は、私の「吃り」も大分治っており、皆と普通に話をすることができたのである。
 
 さて、私にとって「思い出に残る先生」といえば、怖い小島校長を始め、虫本、山本、平田、山上
藤原、香川、三木、森、田村などの諸先生が先ず瞼に浮かぶ。
 特に、虫本先生「ムッさん」は私たち三年二組での担任であり、彼の.平家物語はあのだみ声で、「滅ぴゆくものの哀れさと、美しさ」を、つばを飛ばしながら、真剣な顔で面白おかしく語ってくれたのが今でも耳に残っている。 先生のお陰で私は国語がとても好きになった。
 また平田先生の人文地理も異色であり楽しかった
ある時の期末試験だかレポートで「君が戦国時代の軍師であるとして一大名の城を設計せよ」というのがあり、殆ど皆が丸亀城の図面を書いたのを思い出す。なぜ、この先生が「ゴットン」と呼ばれていたのか「ゴット」なら分かりやすいのだが・・。

 丸高にはこの他、ニックネームの奇抜な先生が何人もいた。「重箱」と言う先生もいたし、「スケ」と言う先生もいた。何れも私には意味がよくわからなかったエアシ先生(本名は今も思い出せない)という先生も居られたが、あるとき、私は江蘆先生と本人に呼びかけて変な顔をされたことがある。後でそのニックネームの意味を知り本当に困った。
 私たちのクラスは常に楽しい雰囲気が漂っていたそして、その中には今も思い出に残る快男児がいた。
 暑い夏のある日の午後、解析ⅱの授業で、香川先生(オメガ)が難しい数式を黒板に一杯書いていた時の事である。長尾)君が突如として、
 「緊急質問
と大きく手を挙げた。彼は昼の休み時問に外で走り回っていたのか、上半身は丸裸、薄汚れたパンツ一枚の姿で授業を受けていた
 オメガ先生が
「この式を書き終わるまで待てませんか
と言ったのだが、彼は、
「待てません」
と言う。先生は怪詩そうな顔をして向き直り、
「質問は何ですか」
と穏やかに聞かれた。
「先生は何のために授業をしていますか
 先生は暫くの間、考えておられたが、
「生活のために、教えています。なぜ数学を……と言いますと、これが私の得意な分野であり、同じ生活のためなら、数学を教えることが最も世の中の役にたつと思うからです」
とお答えになった
「それで宜しい、続けてください」
と、長尾君。彼はその時、なにか「詩」を作ろうとしていたようである。
 この時期、私は彼の詩を幾つか見せてもらったこととがある。彼には煌めくような文才があった。その彼が、同窓会の名簿によれば、やがて小学校の先生となり校長となった。どんな先生であったのかまた、その後の彼の著作も読んでみたいと思っているのだが・・・・卒業以来まだ会う機会を得ない。
 
 今一つ、授業中での面白い話として記憶に残るのは山上先生
アンパンの英語参観授業における事件である。
 ある時、県のお偉方が視察に来られるというので、山上先生は何時もと異なる授業方式を実施されようとした。つまり、この時だけ、先生が英語で質問をして、我々も英語で答ええるというハイカラな授業形態の挿入である。それぞれの質問と模範回答はあらかじめ用意して、英語の良く出来る何人かの生徒をその担当に決めておき、事前に十分な予行演習もしておいたのだが、どういう訳か、いよいよ本る番と言う時になって旨くいかない。 どの生徒の応答もしどろもどろになってしまった。

 先生はいらいらし始めた。その時である一人の生徒が元気よく立ち上がり、
「先生予定の順番が一つずつ後ろへずれていま
と大きな声で叫んだ。

 皆がどつと笑った。あの厳粛な小島校長もこの席に居らた筈である。この時のアンパン先生の困った顔・・・、いま思い出してもおかしくてたまらない。さて、この時の「サムライ」が誰であったのか、どうしても思い出せない。 この文集を見て是非、名乗り出て欲しいものである。

 私たちのクラスには高尾(哲朗)君、山本(美樹)君、 それに既に故人となった細谷君(秀彦)といった愉快な「三人組」がいて、休憩時などでは何時も掛け合い漫才のような会話で皆を笑わせていた。岡本君(章男)もとぼけた会話でよく私を笑わせた。オメガ先生や森先生み授業では、一番前に座っていた中山(武美)君が、ちょこっと手を挙げ、皆を代表する形で質問をしてくれたのはあり難く、今も感謝している。
 当時、自民党の総裁になりたいといっていた香川(文雄)君は、いま大阪に事務所を持ち「弁護士」として活隠しておられる。彼が政治家になっておれば、今の日本はもう少し良くなっていたと思われるのだが・・・。
 余り目立たなかったけれどもユニークな級友の一人に尾上(幸治)君がいる。彼は瀬居島の出身で機械体操、特に鉄棒が旨く、また海に潜っては、泳いでいる魚を槍で突くのが得意であった。それも揮一つで潜り、後ろから魚を追っていって目から目へと突きぬくのである。それは正に名人の技であった。
 
 私はどういうわけか、そんな彼ととても親しくなった。彼は丸亀で下宿をしていたのだが、高校三年の夏休に彼の実家へ泊まりがけで遊びに行ったことがある。
 当時の瀬居島には電氣がなく、夜はランプが用いられていた浜辺で焚き火を囲んでの素朴な盆踊り大会・・・男女が楽しげに踊っていた。今では見られない風景だが・・・。一幅の絵として思い出される遠くに坂出の町の灯が見えた。
 
 その後、小舟で沖合いに出て暫く夜の海を楽しみ、夜になってから彼の家に泊めてもらった。翌朝、太鼓の音で目が覚めたのだが、それは島の小高い所にある「鎮守の森」からの太鼓であった。夜明けと共に太鼓の音で島の人達は総ての家から誰かが代表で「氏神様」へお参りに行くのだという。
  
 本当に美しい島で
其処に住む人達はみんな素朴で親切な人達であった。その瀬居島も今や坂出からの陸続きとなり、都市化が進んでいると聞く。
 
 高校時代に特に親しくして頂いた中山武美)君や横山(治男)君とも長い問、会っていない川北(秀一)君や小網(泰昭)君は既に故人である。たった一年問の高校生活であったのだが、あの頃の仲問が私には懐かしくてたまらないのだ。
 守(誠次郎)君等のご尽力で毎年開かれる二十三・二十四年卒の同窓会(同期会)と東京丸高同窓会に、私は二十年くらい前から出来るだけ出席するようにしているが、前者への出席率はかなり高いのに、同期の仲聞で後者への出席者は極めて少ない何故であろう先輩や後輩達とも会って語り合うのもまた楽しく、その後、二次会でのクラスはもっと楽しく盛り上がるのではなかろうか
 最近の私は、非常勤講師として週回、東京電機大学で教えることの他は、もっぱら趣味の日本画を描いたり、パソコンで遊ぶといった毎日である絵の方は下手なりに色々なものに挑戦しているが、その中でも得意なのは「鯉の絵」である家の庭に作った小さな池四国の形で遊ぶ十数匹の錦鯉がそのモデルとなっている。 人物画としてはデッサンの会に顔を出し、主として若い女性のヌードを描くが、この会で描いている側のは殆どが爺さんで、私などより年長者が多く、それも女性の方が断然多い。女性パワの時代であろうか
 一方、ゴルフの方は、この所、回数がうんと少なくなった。そのかわり、むかし勤めていた頃の仲問たちと月に一回、東京近郊を十十ニキロ歩く「友歩会」というのに妻と二人で参加するようになったその内に、四国遍路の巡礼をしたい。それも写生をしながら、出来れば歩いて巡りたいと考えているのだが・・・・
ここまで書いてきて、ふと、誰かの詩に、
 血でつながるふるさと
  言葉でつながるふるさと
   心でつながるふるさと
と言う言葉があったのを思い出した来年もまた皆さんとお会い出来るのを楽しみにしている。