武士道の美学

――切腹の形―― 
                                横井 寛
 武士道における終極の美は切腹であろう。その昔、責任を取るということと腹を切るということは同意語でもあった。
TVとか映画の時代劇を見ていて、いつも、私が気になるのはその切腹の仕方である。まあ、お芝居での演出だとは言うものの・・・どの場面でも、白布を巻いた短刀の刃先が10センチかあるいはそれ以上も出ている。そして、それを勢いよく腹に突き刺すのだが・・介錯がある場合もない場合も同じやり方である。そしてみんな簡単に死んでいくのだが、介錯が無い場合、人間は腹に刀を突き刺したくらいで簡単に死ぬことは出来ないのである。
 その昔、武士の家では子供が元服をする時に切腹の作法を教えたといわれるが、私は工業学校二年生の終わりろ・・・それは昭和二十年の二月から三月にかけての頃であったが・・・剣道の先生から切腹の仕方や差し違えの仕方を正式に教わった。先の戦争で日本が南方の基地で次ぎ次に玉砕を遂げていた頃のことである。
 その頃の私は13歳であった。
 すなわち、その津島先生の話では、切腹の仕方に古式切腹と近代式切腹の二つの“形”があるということであった。この古式切腹というのは南北朝時代のもので、腹を十文字に掻き切るやり方である。この場合、一般には、その後、自ら首の動脈を切る。太平記によれば、大塔宮護良親王の身代わりとなって敵の目前で討ち死にする村上何とか言う武将は、腹を十文字に掻き切って、自らの肝を敵に投げつけたという有名な話がある。昭和二十年の八月十五日、時の陸軍大臣であった阿南大将が行った切腹も古式切腹であった。彼の場合は、敗戦と多くの部下を死に追いやったという責任を感じての切腹であり、あえて介錯を拒絶して、腹を十文字に掻き切り、一晩中、苦しみ抜き・・出血多量による死を選んだとわれる。つまり、人間はただ単に腹を切ったくらいでは容易に死ぬことが出来ないのである。


一方、近代式切腹と言うのは江戸時代の初期から中期にかけて完成されたものといわれるもので、刀または短刀の抜き身の部分を白布で巻いて持つのだが、その刃先は1センチ程度出せばよいと教えられた。腹には一般に晒を巻いているが、その上を血が滲む程度に左から右へ、真っ直ぐに切り、最後は直角に上へ2~3センチ切り上げて留める。介錯がない場合には、その刀の刃先を10センチくらいまで長くして持ち直し、それを心臓(左お乳の下)にあて、伏すような形で自分の体重をその上にかけるようにして突き通すのである。木刀で何度もそのまねをさせられた。
現実には、忠臣蔵における浅野の殿様など、短刀を左手から右手に持ち替えて、正に腹に当てようとする寸前に、介錯が行われたともいわれている。つまり腹を切るその直前に介錯をするのが武士の情けであると考えられていたようである。


さて、その介錯は、刀を振り下ろして切るのだが、切っ先三寸のところが、首に当たって進むように、つまり、押すようにして切り、そこで刀を止めねばならない。これは喉の皮を残して切るわけで、絶対に首を切り落としてならないと教わった。首が転がってはいけないのである。見苦しいからであろうか。
木刀で何回も練習させられた後、次の週には先生が青竹に藁を巻いたものを幾つも用意してきて、これを人間の首に見立て、先ずは先生が真剣で切って見せ、藁を三本ないし十本残して切るようにと教わった。その後、何人かの生徒代表に実習をさせた。私もその時の生徒代表の一人として真剣を持ったのだが・・この介錯もなかなか難しいものであった。

 次に刺し違えによる自刃の仕方についても教わった。太平記では、楠木正成兄弟などが行ったやり方である。白虎隊でもこの方法を選んだ者がかなりいたとの事である。
これは、二人が夫々、右手で刀の刃先から10センチないし15センチのところに布を巻いて持ち、それを互いの心臓に当て、声をかけて同時に 左手でお互いが抱き合うようにして、突き刺すのである。これも木刀で何度も練習させられた。


 我々はいま、切腹の作法など必要としない時代に生きているとも言えるが、「命がけで人のため、国のために尽くす」という政治家や企業家が極めて少なくなっているように思われる。恥を知り、死を持って責任を取る、という先人が磨き上げたてきた“武士の心”だけは後々の世までも、語り伝えていきたいものと考える。
                           (2007年11月)