日本人の「腹」にまつわる一考察

                                                                                                                     横井 寛
 武士道の美学―切腹の形―というエッセイを書いた後、私は、なぜ日本人は自らの生命を絶つのに腹を切るという儀式を考えたのであろうか、という事に思いを馳せるようになった。
 友人、亀井寿君の説によると、いわゆる近代式切腹というのは、江戸時代になり、茶道などの普及により、日本人が正座をするようになってから、最も美しい姿で自害をするか自害をさせる儀式として確立されたのではないかということであった。
およそ世界中を眺めてみても自殺の手段として腹を切ったのは日本人だけであろう。日本人にとって、そもそも、“腹”とは一体何であったのか?
日本語では
“腹を据える”に始まり、“腹を割って話す”、“腹を決める”、“腹を合わせる”、“腹を読む”、“腹黒い”、“腹づもり”、“腹が出来ている”、“腹が煮え繰り返る”、“腹に何も無い”“腹が大きい”などなど、腹に関する単語がやたらに多い。 “腹芸”とか“私腹をこやす”という言葉もある。
このように見て来ると、元々日本人というのは、昔から、腹でものを考えるという思想があったのではなかろうか。
腹という字を辞書で引いてみると実に色々な意味があることに驚かされた。
一方、胸で考えるという思想もある。恋心を表すとか、心を寄せるというのにハートのマークというのも漫画などで良く見られるが、これは多分、西洋からの輸入であろう。もっとも日本でも
「胸に手を当ててよく考えてみなさい」
ともいう表現があるにはあったのだが・、これは何時の頃からか?・・
日本では、昔から、一大決心は腹から生まれるとも言われており、
1)        頭で考える人は目先のことを考え
2)        胸で考える人は少し先のことまで考え
3)        腹で考える人は物の本質を考える
と見做すこともできる。
そもそも戦前の日本語には「肚」という漢字があったのだが(これも前出の亀井君が思い出させてくれた)、現在の広辞林には出ていない(漢和辞典には残っている)。
上記の“腹”もその幾つかはこの“肚”という字に置き換えてみると我々古い人間にはより分かり易いような気がする。この「肚」という漢字が使用されなくなってから、肚の据わった人間が激減したように私には思える。
頭脳をコンピュータに譬えるとそのコンピュータに指令を発するのは“肚”であると私は考えたいのだがいかがであろうか?
 最近の政治家は国益よりも党利、党略を優先し、企業家もただ儲かることだけを考えて賞味期限や生産地を偽造する者が多くなった。法律に違反していなければよい、いや、見つからなければ何をやってもかまわないという風潮が蔓延しているように思われてならないのである。
今年の世相を表す漢字として“偽”が選ばれたことをみても、それを証明している。
このままでは日本は滅びるのを待つだけである。
今こそ、肚を据えて、肚で考えるような、本来の日本人、つまり、武士道の精神を取り戻すべき時ではなかろうか。            (2007年12月)